元気がない時の話だ。
出来れば世界を僕は塗り変えたい
戦争をなくすような大逸れたことじゃない
だけどちょっと それもあるよな
-- 転がる岩、君に朝が降る / ASIAN KUNG-FU GENERATION
わかるぜ、と思いながら、机に突っ伏す。時刻は午前三時。眠れないのは久しぶりだった。
今、自分が何をしているのか。総体としての「これ」、要するに人生にどういう意味があるのか(もちろん、ない)。空回りはいつまで続くのか(もちろん、死ぬまで)。考えても詮無いことを考えてしまう夜は、ときどきやってくる。
この波は、思春期の時期によくやってきたし、ヨレヨレの社会人になった今でも、いや、今だからこそ来るときもある。一方幸いなことに、十分にこの波を乗りこなす技術をもまた、自分は身に着けつつある。
具体的にどうするか? 眠れるならばすべての明かりと音を遮断して眠る。もしそれができないならば、飯を食うか、風呂に入るか、外へ出て散歩をするのだ。時間は気にしないこと。どうせ眠れないのだから、何をしたってよいと考える。
とにかく動くとよい。 素朴唯物論者にいったんなってみるのだ。精神は脳に宿り、脳は体の一部であるので、それを直すには体に物理的あるいは化学的な刺激を与えるしかない、と仮定して動く。すると、行動している間はそれに集中しているから、時間が早く過ぎていく。
時間が経つと、あらゆるものはもとの形に戻っていく。精神も例外ではない。気づいた時には、眠ったり、明日の仕事のことを考え始めたり、食事の支度を始めたりしていて、そのまま日常に還っていくのだ。
言うは易しで、前向きな行動がどうしてもとれないときもある。この日がまさにそうだった。(布団から出られるだけ、ましなほうだったが。)
机にたどり着き、YouTubeを開いて、「転がる岩」を聴きはじめた。再生ボタンを押す前から、頭の中にはもうこの曲が流れていた。しかし、直接耳で聞くのはやはり違うものだ。髭面のゴッチを拝めるのもなかなかよくて、自分もこんな風に歳を重ねられたらと思った。
要は「浸ったつもり」になりたかっただけだったのだが、意外なほどに浸れた。浅ましい聞き方で、ナルシシズムそのものであるのだが、これで元気になってしまうのだから仕方がない。人間の感情はメチャクチャ単純にできている。
結局、この日はよく眠れた。だから自分はこの曲が好きだ。
これを「救われた」と表現する人もいそうである。ただ、そんな大それた話では、ないよなぁ。